墨東綺譚

2005.06.01
「墨東綺譚」永井荷風
(新潮社・1951年12月刊)

 『墨東綺譚』は、抒情小説の最高傑作のひとつ。荷風は様々な女性と情事を重ね、それを小説の題材に使ってきたが、『墨東綺譚』もまた然り。昭和11年4月ごろから墨東の玉の井(現在の東向島)の私娼街に毎晩のように通い、自らの体験を小説のすることを思い立つ。従って、物語の主人公である「わたくし」とは、永井荷風自身がモチーフになっている。

 さて、作品では、玉の井の私娼街を背景に、主人公の「わたくし」と、親子ほど歳が離れた娼婦・お雪とのはかない恋が生まれ、数ヶ月で散っていくさまを描いているが、その二人が出会うシーンに、雨傘が登場する。

 季節は梅雨時。その日は朝からよく晴れていたが、主人公が夕刻に玉の井をひとり歩いていると、落雷とともに大粒の雨が突然降り出す。しかし、主人公は長年の習慣で、洋傘を持たずに外出することは滅多にない。いくら晴れていても入梅中ということもあり、当然のごとく傘を手にしていたので、慌てることなくそれを開いた。すると、後方からいきなり、「だんな、そこまで入れてってよ」とお雪が真っ白な首を突っ込んできたのだ。主人公は突然の相合傘に周囲の目が気になり、「おれは洋服だからかまわない」と女に傘を差し出すと、それでは娼家に寄って行けと手を引っ張られた・・・。

 この出会いの場面が実話に基づくものかどうかは定かでない。それにしても、なぜ永井は常に傘を持ち歩いていたのだろうか。紳士の必須アイテムだったステッキの代わりに携行したというのが模範回答だろう。しかし、これも自分の経験をもとに綴った『ふらんす物語』では、フランス贔屓の主人公がロンドンで雨に困っているパリジェンヌを見かけ、「これは幸運」とばかりに杖代わりに所持していた傘を差し出すシーンが出てくる。つまり、永井は、女性と自分を引き合わせる小道具として常に傘を持ち歩いていた、というのもあながち間違った見方とはいえないのではないか。

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