洋傘の歴史

洋傘文化の夜明け

日本に洋傘文化が花開いたのは、西欧文明が流れ込んできた明治時代。
では、洋傘が国内に入ってきたのはいつかというと、もう少し前の江戸時代まで遡ることになる。

日本最古の洋傘の記録
江戸後期の1804年(文化元年)、長崎に入港した中国からの唐船の舶載品目の中に「黄どんす傘一本」との記述が見られる。これが現在、洋傘として特定できる最古の記録とされるものだ。
もちろん、安土桃山時代に堺の商人が豊臣秀吉に傘を献上した記録など、これ以前にも洋傘が海外から日本に持ち込まれた形跡はある。だが、はっきり洋傘だと断定できるのは、この「黄どんす傘」が初めてのもの。.

鯨のヒゲを使った傘の絵
この後、洋傘が本格的に輸入されるようになるのは幕末まで待つことになるが、それまでの五十年ほどの間にも洋傘に関する記述はいくつか見られた。例えば天 保年代(1830〜1843年)に書かれたとされる「崎陽雑話」という筆写本には、「蘭人の雨傘」という絵入りの記録があるその説明を見ると、鯨のヒゲを 骨として使った珍しいものであったことがわかる。ただ、この半世紀ほどの間に洋傘が普及する気配が見られなかったのは、やはりまだ鎖国が続き、西洋文化の 流入が制限されていたからだろう。

黒船とともに多くの人の目に触れる
“黒船来航”として知られる1853年(嘉永6年)のペリー浦賀来航は、日本の社会を一変させることとなったが、洋傘の普及もまた、この事件をきっかけとすることとなる。
翌1854年(安政元年)、日米和親条約締結のためにペリーが浦賀に再来。このとき、ともに上陸した水兵の行進時に三〜四人の上官が傘を差していた。この 一大事にはかなりの野次馬が集まっていたため、洋傘が多くの日本人の目に初めて触れることとなった。

洋傘の本格的輸入開始
そして、本格的な輸入が始まったのが1859年(安政6年)。前年までに米、英、露、独など計六カ国と締結された修好通商条約がこの年に発効したのを受 け、英国の商人の手によって国内に持ち込まれた。ここから洋傘の輸入本数は年々増加の一途をたどる。ただし、江戸時代のうちは、洋傘はいわゆる舶来品であ り、まだまだ高嶺の花で、一部の武家、医師、洋学者たちが使用していた程度。庶民には手の届かない代物だったようだ。

洋傘普及の時代に突入
時代が明治へと変わる頃を境に、ようやく洋傘は普及の兆しを見せる。明治元年(1868年)に刊行された「武江年表」という書物には、「この年から庶民に も洋傘が普及し始めた」と記されている。輸入本数も目に見えて増え、文明開化の波とともに洋傘は一気に市民の手に渡り始める。そして、あの鹿鳴館時代を経 て、ついに国産洋傘が誕生するのである。

国産洋傘の誕生

傘の着用を禁ずる法令
庶民に洋傘が広まっていく一方で、この頃、多数輸入されるようになっていた洋傘の着用を禁止する法令も出されている。1870年(明治3年)、大阪府では 「百姓町人の蝙蝠傘、合羽、またはフランケットウ着用禁止令」が発令された。傘を持つ姿が明治維新で禁止された帯刀の姿と間違えやすいことがその理由。同 時に江戸時代までの階級制度が崩壊し、武士と同じような服装をし始めた町人をけん制する意味合いもあったようだ。

晴れの日を洋傘で飾る
しかし、こうした規制にも抑えられることなく、洋傘は文明開化の流れとともに普及の一途をたどっていった。1871年(明治4年)に刊行された『新旧文化 の興廃競べ』には、蒸気の乗合、牛肉の切売、人力車の往返とともに、蝙蝠傘の流行も挙げられている。当時輸入されていたのは生地に絹、呉絽、アルパカ、木 綿を使用し、晴雨兼用で使われていたようだ。
写真撮影が一般的になってきたのもこの頃で、当時撮影されたポートレートの中には、着物姿に洋傘を携えて写っているものも多い。洋傘が晴れの日を飾るのに相応しい、豪華でお洒落な小道具としても捉えられていたことは想像に難くない。

洋傘製造会社が登場
国産品が登場し始めたのは、1879〜80年(明治12〜13年)頃のことだ。すでに製品とともに骨などの材料も輸入されるようになっており、これを用いて洋傘の製造を試みるものが現れるようになっていた。
そして1881年(明治14年)、ついに東京本所に洋傘製造会社が設立される。富岡製糸場に代表される殖産興業の時代が始まっており、国内でも洋傘用の絹 や骨が作られるようになっていたが、量産するための材料はまだ輸入に頼らざるをえない状況。この時作られた洋傘も純国産とはいえないものであったが、ここ に洋傘国産化の第一歩が記されたのだった。

純国産化を加速させた鹿鳴館
その後、洋傘の純国産化が実現されたのは、1889〜92年(明治22〜25年)頃だと言われている。同時に、洋傘の普及も一段と加速していく。時は豪華 絢爛な欧風文化が花開いた鹿鳴館時代。1883年(明治16年)に政府の欧化政策の一環として落成した鹿鳴館の影響は強く、上流階級のみならず、広く一般 の人々にまで欧風の文化が広まる一因となった。そしてこうした時代の流れを追い風に、洋傘は純国産化の時代へと突入していく。


続・国産洋傘の誕生

洋傘製造会社が登場
870年(明治3年)、帯刀と間違えやすいことも理由で、洋傘の着用を禁ずる法令が大阪で出された。にもかかわらず文明開化のムードの中、洋傘は一気に普及していく。  
しばらくして、国産洋傘が登場し始めた。1879〜80年(明治12〜13年)頃のこと。既に傘骨などの材料も輸入されるようになっており、これを用いて洋傘製造を試みるものが現れるようになっていた。  
そして1881年(明治14年)、ついに東京本所に洋傘製造会社が設立される。すでに富岡製糸場に代表される殖産興業の時代が始まり、国内でも傘生地や骨 が作られるようになっていたが、量産するための材料はまだ輸入に頼らざるをえない状況。この時作られた洋傘も純国産とはいえないものであったが、ここに洋 傘国産化の第一歩が記された。

純国産化を加速させた鹿鳴館
その後、洋傘の純国産化が実現されたのは、1889〜92年(明治22〜25年)頃と言われている。時は豪華絢爛な欧風文化が花開いた鹿鳴館時代。 1883年(明治16年)に政府の欧化政策の一環として落成した鹿鳴館の影響は強く、上流階級のみならず、広く一般の人々にまで欧風の文化が広まる一因と なった。
同時に、洋傘の普及も一段と加速していく。こうした時代の流れを追い風に、洋傘は純国産化の時代へと突入していったのだった。

<日本の洋傘史の年表>
西暦 年号 主な出来事
1870年 明治3年 大阪府で「百姓町人の蝙蝠傘、合羽、またはフランケットウ着用禁止令」が発令される
1871年 明治4年 『新旧文化の興廃競べ』という書物が刊行され、蒸気の乗合、牛肉の切売、人力車の往返とともに、蝙蝠傘の流行が取り上げられる
1872年 明治5年 群馬県で富岡製糸場が開業する
1876年 明治9年 廃刀令が発令される
1979〜80年 明治12〜13年 この頃から国産の洋傘が目につくようになる
1881年 明治14年 東京本所に洋傘製造工場が設立される
1883年 明治16年 東京・日比谷に鹿鳴館が落成する

洋傘全盛期へ

「日本の洋傘史」では、過去三回にわたって洋傘の黎明期から純国産洋傘の誕生までを解説した。今回はいよいよ量産化から昭和の洋傘全盛期への軌跡を紹介する。

ファッションアイテム化
1889〜92年(明治22〜25年)頃、材料も含めた洋傘の純国産化が実現。庶民にも手の届く安価なものが市中に出回り始めた。また、明治後期にかけては上海や香港など隣国の大都市への主要輸出品目にも名を連ねるようになった。
大正時代に入ると、洋傘は庶民の間でも、実用面だけでなく、ファッションアイテムとしても注目されるようになる。当時流行の先端を走っていたモガ(モダ ン・ガール)の定番アイテムはショールと洋傘。明治から婦人の外出時の必需品となっていたパラソルも、派手な刺繍入りのものや友禅加工のものなどがお目見 えする。
昭和の世になると、レース張りのパラソルがヒットしたり、レース人気が急落し、代わりに晴雨兼用傘が流行るなど、トレンドが二転三転。女性のオシャレ心を大いに刺激したのだ。

折りたたみ傘ブーム到来
洋傘の製造は戦中に中断を余儀なくされたが、戦後は程なく復興。目覚しい発展を遂げることになる。
まず各社が目を付けたのが折りたたみ傘だ。戦前にも欧州からの輸入品が市場に出回ったことがあったが、本格的な普及には至らなかった。そこで、1949年 (昭和24年)頃から一部の業者が開発に着手。ドイツ製の折りたたみ骨をモデルに、真鍮製の大小の異形パイプがスライドして短くなる中棒を開発し、商品化 した。
1951年(昭和26年)頃には親骨に溝地金を採用したホック式の改良タイプが開発され、現在の折りたたみ骨の原型が形成された。
そして、1954年(昭和29年)、スプリング式の折りたたみ骨が発明される。これは骨の一本一本に伸縮自在のスプリングを組み込み、簡単に開閉できるよ うしたもの。その後改良を重ね、さらに防水性が高く、低価格な新素材・ナイロン生地を使用し、画期的な折りたたみ傘を世に送り出した。
その人気はうなぎのぼり。使いやすさから飛ぶように売れ、空前の折りたたみ傘ブームが到来する。後に国産化に成功したポリエステル生地の採用モデルも発売し、普及が加速。世はまさに洋傘全盛時代に入る。

昭和の歴史は骨の歴史
1965年(昭和40年)にはコンパクト傘が登場。これは従来二段式だった中棒を三段式に改良し、ハンドルを取り払ったタイプ。たたむとハンドバックに難 なく入る小型サイズが女性に受け、たちまち人気商品にのし上がった。また、三段折りのミニ傘もこの頃に登場。同時に中棒や骨のアルミ合金化が一部で進み、 徹底した小型軽量化が図られていった。
一方、同じ頃、男性の間では、ワンタッチで開くジャンプ傘人気が過熱。戦前にも一部で流通し、戦後も輸出用に生産されていたジャンプ傘が、1960年(昭和35年)に国内向けに販売が開始され、数年を経てトレンドとなったのだ。
振り返ると、昭和の洋傘の歴史は骨の歴史ともいえる。各社の旺盛な開発意欲が大小さまざまな発明を生み、洋傘シーンをリード。今日の洋傘業界の基礎を作ったのである。

<日本の洋傘史の年表>
西暦 年号 主な出来事
1889〜92年 明治22〜25年 材料も含めた洋傘の純国産化を実現
1905年 明治38年 日露戦争に大勝。特需で洋傘市場も急拡大
1932年 昭和7年 晴雨兼用傘発売
1949年頃 昭和24年頃 一部メーカーが折りたたみ傘の開発に着手
1951年 昭和26年 ホック式の改良折りたたみ傘が開発される
1953年 昭和28年 国産のナイロン洋傘生地登場
1954年 昭和29年 スプリング式折りたたみ傘が開発される。
ナイロン折りたたみ傘全盛時代へ
1960年 昭和35年 ジャンプ傘登場(別名:飛上り傘)
1960年 昭和35年 ポリエステルの洋傘生地が開発される
1965年 昭和40年 コンパクト傘登場。女性人気でヒット商品に
1965年 昭和40年 三段折りのミニ傘が登場




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